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2006年3月25日 (土)

ロアと黒猫

使い古しのタワシのような毛並みの黒猫は今日も走る。目的地はいつもの赤い屋根の一軒家。 慣れた足取りで黒猫はブロック塀をよじ登ると塀の上を踊るかのように軽やかに走り出した。すると眼前に目印の赤い屋根が見えてきた。黒猫のお目当てはもちろんロアだ。ロアはこの家の飼い猫で綺麗な濃い茶色い毛並みからババロアにちなんでロアと呼ばれている。黒猫はその高鳴る鼓動に共鳴するかのように地面を足で蹴り上げる動作も加速した。

「お~い。おはよう!ロア」

黒猫の喜びが伝わるハキハキとした明るい挨拶。それに対してロアが挨拶を返そうとしたとき、黒猫は自分の世界の異変に気が付いた。右足にあのザラリとしたコンクリートの感覚がなく目に見える世界が斜めになっていた。黒猫は足を踏み外してブロック塀から落ちたのだ。慌てて黒猫は屋根にしがみつき赤い塗料を落とすほど必死によじ登った。今日話そうとした話題などは赤い塗料と共に削り取られたみたいだ。すっかり舞い上がってしまった黒猫は気が動転して目が泳いでしまっていた。どうしよう、あぁどうしよう何話そうとしてたんだっけ。黒猫の脳内がパニックにおちいっている頃、対するロアは突然の出来事に言葉を失い、黒猫が無事かも心配で黒猫の体を見つめていた。ロアのその茶色の毛並みから思わず目がとろんとするような心落ち着く淡いシャンプーの香りが黒猫を落ち着かせた。せっかくオイラが来たのにロアはなんで悲しそうな顔で黙っているんだろう。オイラが来たこと嬉しくないのかな。落ち着いたことで逆に黒猫は黙っているロアの姿を見て不安になってしまった。黒猫は沈黙に耐え切れず思いつく限りの話をロアに話した。お節介な犬の話、人間との格闘、穴場の食事スポットのことなどなど。なんてことない会話だったけど黒猫にはその時間がとても楽しくいとおしいものだった。心躍るとはこのことなのだろう。自分と相手のどちらが話しているときでもとても心が暖かいのだ。楽しいという感情の空気に周りが覆われている気がした。

「隣町においしい魚が食べれるとこがあるんだ。一緒に旅行がてら食事に行こうよ」

黒猫はロアと旅行するためには障害があることも知っていましたがあえて旅行に誘ってみました。無論、黒猫はロアも喜んで来てくれると思っていた。けれどもロアの返事は黒猫の予想とは違っていた。

「ごめんなさい。ご主人様が困るから遠くには行けないの」

ロアは申し訳なさそうに目を伏せ返事を返した。

「何でダメなんだい、少し外に出るくらいならいいじゃないか」

黒猫は目に力を込め、いらついて言い放った。

「ごめんなさい。ご主人様は大事だから」

黒猫の心から津波のような怒りと失望感がこみ上げてきた。「じゃあオイラは大事じゃないのかよ!」というあふれる感情を歯を食いしばり言葉を押し殺した。言いたかったその言葉は心の中で絶望と共に反響していた。代わりに一言

「もういい。もういいや。行くね」

黒猫は来た時とは裏腹に足を引きずり寂しそうに何とも重い足どりで、来た道を戻っていった。

光まぶしく騒がしい空の下、今日もボクは幸せだ。ここにいるとご主人様は笑顔でボクと一緒に遊んでくれるから。最近ご飯も少なくなってきたからボクが何か食べ物をご主人様に取ってきてあげたいなぁ。でも遠くに行ってはだめなんだもん。仕方ないか。いつからかご主人様の前に怖い顔の人達がよく来るようになった。なんだろうこの人達は、早く帰ってくれないかなぁ。ある日を境にご主人様は外に出歩く回数が増えた。それと同時に悲しい顔をすることも多くなった気がしたんだ。嫌なことがあったのかな。ボクへのご飯も変わった。量が多くなったんだ。でもご主人様はあまりご飯を食べなくなってた。ご主人様のいつもと違う行動に戸惑いながらも楽しい日々を過ごしていたんだ。あの日までは。あの日も怖い顔の人達が来ていた。怖い人達はご主人様を乱暴に外へ連れ出そうとしていた。

「何するんだ、ご主人様を離せ!」

ボクは怖い人達に言い放った。するとご主人様がボクに柔らかい表情で

「大丈夫。帰って来るよ。待ってておくれ」

そういうと怖い人達と外に行ってしまった。ご主人様が言うならボクはここで待ってるね。さっき怖い人達が言ってた『逮捕』って何だろう? ボクは灰色の空気が鼻を刺す公園の中で一匹たたずんでいた。待てども待てどもご主人様は帰って来ない。もしかしてご主人様はもう帰って来ないのかな。いや、そんなはずはない。きっと来れない事情があるんだ。それまでボクがここを離れてどうする。そうしてしばらくの間一匹で食料を確保し様々な経験や情報を得ていくうちにしだいに痛感してきたことがあった。もうご主人様はどこにもいない・・・。心臓に見えない針が刺さり続けている今もご主人様に会えるまでの辛抱と思っていたけどそれももう耐えられない。一体どうしたらいいのかわからない。無駄とわかっていても心のどこかで諦めたくはなかった。あの暖かさをもう一度。そんなささやかな想いを秘めながら。ボクは一匹で彷徨い続けた。

黒猫が去る姿を寂しそうに見つめていたロアの前に一匹の老犬がのそりと姿を見せた。老犬はおぼつかない足取りでロアのいる屋根に登ってきた。

「おやおや、何かもめごとがあったみたいですな。失礼ながら聞こえてしまいましたわい」

毛も伸びきって目も隠れてしまっている老犬は近所では有名なおせっかい犬として知られていた。当然ロアもこの噂は知っていたので隠すだけ無駄と今回のことを老犬に話した。一連の話を聞くと老犬は震えた口をもごつかせ言った。

「ふむ。お主はなぜ外に行きたがらないんかな」

「もう。おじいちゃん私の話聞いてたの?ご主人様が困るから外に行けないのよ」

ロアはもう話すことは話したからおせっかいな老犬に早く帰ってもらおうという口調で言った。

「それはお主の主人の気持ちじゃろうて。お主自身の気持ちはどうなんじゃ」

ロアは目を見開き固まった。ロアにとって主人の言うことは絶対だったからだ。それだけに老犬の問いなど想像だにしていなかった。ロアは目を左下にそらし答えた。

「それは、私も外には行きたいけど・・・でもご主人様は裏切れないもの」

老犬はその答えに口をすぼめ、しばらく間を置くとゆっくりとその口を開いた。

「ふむ。お主は自分の安心のためにその黒猫を苦しめとるのう。主人の気持ちは裏切らんでも黒猫の気持ちは裏切っとるということかの」

ロアの怒りが伝わってきそうな目で老犬をにらみつけた。

「ふふふ。本当のことじゃろう。お主は主人の言いつけを守ることで身の安全や食事を保障されとる。そしてたまに刺激が欲しくなったとき黒猫と会うというところじゃろうて」

ロアはあなたに何がわかるの。といった顔をしてふてくされつつ老犬の話に耳を傾けていた。それを老犬は見下したような目つきで挑発した。

「安心も刺激も好きな時に欲しい。それはいささかわがままというものじゃないだろうかね。黒猫はそのたびに振り回されているんじゃよ」

ロアは怒りの感情が激流のごとく噴きだした。

「そんなのわかってる。自分のわがままだってことぐらい。悪いことしてるなとも思ってる。でも仕方がないじゃない」

いきりたつロアを見て老犬は初めこそアゴに力を入れ口をへの字にしていたのだが一変して優しい顔つきでニヤリと微笑み、頭を『うんうん』と縦に振ると安らかに語り出した。

「それでいいんじゃよ。それがお主の本心じゃ。主人の意志でないお主の意志。その本心が見えなかったから黒猫は一匹で考え苦しんどったんじゃろうな」

ロア自身、怒りであってもこんなにストレートに自分の気持ちをぶつけるのがしばらくぶりだった。それだけにその不思議な爽快感がロアには新鮮で複雑な気分だった。

「な~に、安心も刺激も両方欲しいなんて思えるのはお主が恵まれとるからじゃよ。これからはお主自身が主人や黒猫の話を聞いて後悔しない道を決めるんじゃ。主人の言いつけしか聞かん頑固すぎてもいかん。黒猫の話に流されてばかりでもいかん。人の話を聞かず己の欲ばかり満たしてもいかん。よく考えて答えを見つけ出しなされ」

老犬は役目が終わったとばかりにあっさりと屋根から降りどこかへ歩いていった。

一方、黒猫はというと近所の公園の茂みで重い息を幾度となく吐きながらうずくまっていた。ここは黒猫のねぐらとして最近活用されているお気に入りスポットだ。少し落ち着いたところでロアを旅行に誘ったことを思い出していた。オイラはもっとロアと仲良くなるために前もって隣町に旅行に行く計画を立てていたんだ。ロアは飼い猫。自分は名もない捨て猫。身分の違いは嫌でも意識してしまう。けれどもロアが自分のことを好きでいてくれているなら一度くらい一緒に来てくれるだろうと思っていた。そろそろ首を縦に振ってくれる。そんな淡い期待を持っていた。オイラが旅行にこだわるのには理由があるのさ。旅行に来てくれるかどうかは二の次。ただ自分勝手なわがままをロアが聞いてくれるかでロアが自分を一匹の特別な猫として見てくれているか、それともただの大勢の猫の中の一匹なのかを判断したかったのさ。加えてロアが自分を好きでいてくれるかどうかの目安としても考えていた。つまりロアが今回も旅行を断ったということはあまり自分は大切に思われてないということだ。そう思うと黒猫は自らが沈むようなくらい特大の深く重いため息をついた。

「なんじゃいなんじゃい辛気臭いのう」

黒猫が驚いて振り返るとそこにはあの老犬がずうずうしく茂みに座っていた。

「ほっほ。お主の話はロアから聞いておるよ」

勝手に自分のすみかに入ってきた無礼な老犬を追い払おうとした黒猫だったが思いがけずロアの名が出たことに動揺し老犬を見つめた。

「お主は旅行に行けるかどうかだけでそれがロアの全てと判断して嫌いになるんかのぅ」

「違う。ロアのことが好きだから外に出てほしいんだ。外に出れば考え方が変わるはずさ。それでもっと仲良くなって自分の気持ちを外に出してほしいんだ。彼女に変わってほしいんだよ」

黒猫は間髪入れず老犬の言葉を否定した。

「ふむ。それは卑怯じゃ。もしくはわがままじゃ」

「何言ってんだ。今まで誘っても誘っても断られてきたんだ。わがまま聞いてるのはこっちだよ」

そう。黒猫がロアを旅行に誘うのは今回が初めてではないのだ。何度も何度も誘ったのだがその度に都合が、気分が、ご主人様が、と何かにつけて断られ続けてきたのだ。

「ではなぜそれが嫌だと、いい加減にしてくれと面と向かって言えんのじゃ。ロアに嫌われるのが嫌だから言えんのじゃろう。本心を言えんのはお主も同じではないか」

黒猫は図星をつかれ目を大きく開け軽く後ずさりして止まった。

「ロアが変わればいいというのが卑怯なんじゃ。今の2匹がうまくいかないのはロアのせいなどと心の奥で思っておるから出てくる言葉じゃろうが」

黒猫はずっとひるみっぱなしで老犬に批判一つもできそうもない状態になってしまっていた。それでも老犬は話を続けた。

「相手のせいにするうちはまだまだじゃのう。お主も雄なら自分のケツは自分で持たんか。  相手を変える前に自分が変わることだのう。お主だってロアが毎回お主と会う前にシャンプーをしていたことに気付いたか? 毛や爪の手入れは? ロアだってたくさんの努力をしとるんじゃ」

「あっ」

黒猫はロアといたときを思い出して理解した。そういえばいつも良い匂いがしてたけどそういうことだったんだ。ロアの細かな気遣いすらオイラは気が付けてなかったんだ・・・。黒猫はポッカリ空いていた胸の穴に鉄製の槍が突き刺さる気分だった。重く痛い。しかし黒猫は不思議なことに胸がフツフツと熱くなってきた。今まで暗闇を歩いていたのにふと光が射し込んで道を照らしてくれたように感じた。今まで黒猫は普段感じている自らの自信のなさとロアの本心がわからない不安から、ロアに対して喜び以外の気持ちをぶつけたことがなかった。雄らしい頼れる面を見せることがなかった。ロアを変える前に自分を変えよう。そう決意した黒猫は動きたくて仕方がなかった。

「じいちゃん、ありがとう」

黒猫は元気にお礼を言うと風のように素早く公園の外へと走っていった。

「相手の気持ちを考えることも忘れずにの~」

黒猫の後ろ姿に呼びかけると老犬はだらけて

「もう大丈夫みたいかの。ほっほ」

そういうとまたのっそりと歩きだした。黒猫はいつもの赤い屋根に戻ってきた。ロアも屋根の上で黒猫を待っていた。話を切り出したのは黒猫の方からだった。

「ロア、隣町へ旅行に行こう」

ロアは何かを決意した目をして言った。

「ごめん。一緒に行くことは出来ない。あなたが嫌いなわけじゃないの。私はこの家を離れたくないの。ここが好きなの」

黒猫は多少がっかりはしたもののまだ目は死んでいなかった。

「ご主人様は裏切れないってことだね」

ロアは礼をするくらい深々と頭を下げて

「そうなの。ごめんなさい」

黒猫は力強くうなずくと力のこもった目をして

「じゃあ、これからオイラがロアの飼い主と仲良くなって認めてもらう。旅行に行くのはそれからならいいかな」

ロアは予想外のことに目をパチパチさせたが

「それなら・・・」

と小さくうなずきました。それからしばらくして黒猫が元気で明るいという意味で「明」から名をとりメイと呼ばれるのはそれから少し先のこと。老犬が伝えたかったことは相手のことをよく知ることと自分のことを理解してもらうということだった。そうすると相手の嫌だった面もその背景を知ると不思議とあまり嫌ではなくなるということ。この老犬のおせっかいという面も彼が若かった頃に飼い主が大好きで四六時中一緒にいたのだがある日突然飼い主がいなくなったのだ。そして一匹で生きることを余儀なくされた。そんな思いを周りにさせたくないという気持ちと一匹の寂しさを紛らわすためからおせっかいになったのだ。知っているといないのではだいぶ印象が違ってくるだろう。

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